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2008-01-03

(転載)超感覚的まう的茶論

 超感覚的まう的茶論
 はじめに

 このコーナーは、まうがお茶を飲んでいて感覚的にこういうお茶が楽しいなあと感じている点を書いています。もちろん、異論のある人は多いと思うのです、
 お茶は「自由に楽しむもの」だとまうは考えています。味の感じ方、嗜好、またはお茶の愉しみ方、そのすべてはひとりひとり違うと感じています。誰にも違う趣味嗜好を押しつける権利はないし、他人の趣味嗜好に干渉することはできないと考えます。これは、まうが嗜好品関係の趣味遍歴の中で当たってきた壁でもあります。
 今回非常におこがましいのですが、独りのお茶好きとしての美意識というかお茶に関しての価値観のようなものを書こうと思ったのは、私自身の中で「嗜好品を愛する」ということを少し整理してみたいなあと感じたからです。
 だから、この文章自体も誰かに「私の美意識」を押しつけ、肯かせようとかそういうのではなくて、多くの人がブランドや作法や高価な道具や薀蓄に自分の感覚を左右されることなく「自分の美意識」を大事にしてお茶が飲めたらいいなあとおもって書き始めています。

 美(味)しいお茶(序章)
 美味しいとは一体どういう感覚なのでしょう。非常に難しい問題です。日本酒にはまって利き酒三昧(一回100種類以上飲んでいた)の時も悩んだ問題です。単純に五味のバランス、香味などで比べていくと、ある一定のレベル以上のものは困ったことに「みんな(言葉で表すと)美味しい」のです。
その上で自分の中で順位付けをしていくと絶対評価と言うよりはある種の傾向(嗜好)があるように感じたので評価する言葉として「自分の嗜好に合う」とか「美味しいのですが自分の嗜好ではこういう風な味の方が…」と言うような言い方をしてきました。
 ある時、ワインのトップクラスのソムリエが日本酒を自分のワインの評価基準にのっとって評価するというイベントの結果を聞かせてもらいました。これが面白いほどワインの評価の時の傾向(その人は香りの華やかさと、切れ味を重視する評価をするのですが)と同じ傾向のものに軒並み高い点をつけていました。これを見てもわかるとおり、味だけでの絶対評価(品評とも言いかえられるかもしれません)というのは最終的には個人の好みと言う非常に鋭角的なものになり、傾向や嗜好がはっきりした者同士であればその鋭角同士のぶつけ合いと言うのは非常に殺伐したものにならざるを得ないのかとも感じています。
 また、味覚と言うのは知ってのとおり、また、体調などにも大きく左右されてしまいます。満腹の時に最高級フランス料理のこってりしたものを無理やり食べようとしても、とても美味しく感じられないのは想像に難くありません。お茶やお酒のようなと言う「愉しむ」為のアイテムでそのような殺伐とした鋭角的な議論(お互いを認め合って高めようとするのであればそのような話も歓迎ですが)をするのは私にとっては不毛以外の何物でもなく、このような愚は犯したくないとも個人的に考えています。
 そんな中で、これは私個人の頭の中でですが、味覚以上に揺るがない絶対的な評価軸があるのに気づきました。
これであれば、より多くの人に共感できるであろうし、多くの人が楽しめるだろう評価軸です。
 日本の茶道にも通じるかもしれない点ですので、そう言う愉しみ方にまうがならされているからかもしれませんが…。それは「美しいかどうか?」という判断基準です。まず断わっておきますが、ここで使った美しいと言う言葉は非常に観念的な意味での「美しい」で単純に見た目の問題のみを言っているわけではありません。しいて言えば「美意識にのっとった」とでも言いかえられるのでしょうか?
 またたとえ話で恐縮ですが、私の敬愛する酒販店(たしかおいしんぼにも載っていたと思うのですが)の親父がかなりの偏屈で全くの下戸(酒の飲めない男)なのです。その親父が自分の店の酒をすすめるときの話しでもう10年以上前の話ですが鮮明に覚えている話があります「今年も○○の蔵に様子を見に言った、酒の味は飲んでいないからわからんが、玄関の綺麗に掃き清められた様子、差されている一輪の花、その花が訪問者の心を和ませるように、しかも私が来る直前に行けた新鮮さだった、その心で作る酒が旨くなかろうはずがない」と。
 つまり全く飲んだことがなくても、そのユーザーが共感できる「美意識(価値観)」を創造し、その価値で酒の旨さを計っていたのです。
 お茶の世界でも全く同じことが言えるのではないかとまうは考えます。以下にまうが「美しい」と感じてきた事を書きながら、新しい価値観を創造していければと思います。

 心とお茶「この一杯のすべてを味わう」

 まうがお茶を飲む(品評しようと言う時ではなく、あくまで楽しむときにです)中で、一番味を左右している要因かも知れません。心のこもったお茶というのは、それだけで確固たる価値があると感じています。
 そもそもお茶というものが、単なる、椿科の葉の乾燥物をお湯に浸した液ではなく、薬でもなく、嗜好品として「茶」たり得ているのが、「心」の有無ではなかろうかと考えています。「心」と非常に乱暴な言い方をした中にはいろいろなものが入っていると考えます。以下に、私がどのようなものを「心」とよんでいるか書いてみます。
 ・ 「作った人の心がこもったお茶」
 これが味わいたくて私は台湾にいっていると言っても過言ではないでしょう。茶農のお茶作りにたいしての愛情やこだわりを自分のものにし、味わうためには直接会って話しを聞くのが良いのは当たり前でしょう。また同時に、そのお茶に対しての自分の感動を人に伝え、ともに感動するのも非常に楽しいことだと思っています。
 ・ 「いれていただいた方の心がこもったお茶」
 茶芸と言い換えられるかも知れません、相手を思いやった・仕草・手法で淹れられるお茶は「もてなしの心」が加わって、本来の味以上に味わいぶかくなると感じています。
 ・ 「愛でる心で増幅されたお茶」
 茶道で言う道具・設えなどと同じですね「もてなしの心」とも似ていますが、さらに「芸術を鑑賞する心」とでも言うのでしょうか?美しい道具・いれものなどのうつくしさを愛する心がお茶をお茶たらしめる要因となるのではないでしょうか。

 他にも色々あると思いますが、思いつく順で並べてみました。
 余談ですが、逆にこれらの心を廃した対極に「品評」があります。番号で管理し、機械的にお茶を淹れ、スプーンや無地の茶杯などの無機的なものでお茶を飲むことで本来の味を計ろうと言うことですね。
 くどいようですが、これはこれで必要ですし、私もお茶を買うときなどにはこれに近いことも行います。ただ、お茶を味わう、愉しむと言った時に、味という要因のみに頼るのは片手落ちで貧しいと思っています。もっとこの一杯の茶杯の中に注がれたすべてのものを愉しみたいと私は考えています。

 ジャズセッションのようにお茶したい~お茶会のすすめ~

 前章で味以外の要因も愉しみましょうという提起をしましたが、この章では人が集まることで「価値観」はより多様化され、相乗効果をあげるという話しをしたいと思います。
 私はお茶を人と飲むのが好きです、「お茶会」と称してお茶を目的に人が集まることも大好きです。人が集まることは、お茶に対して違う感動のポイント、違う美意識、違う価値観が集まると言うことです。つまり、自分自身では感じられなかった新たな感動の発見があったり違うものの見方ができ、そこからさらに「お茶が美味しくなる」ということです。
 勿論、これはお互いの主張を認め合う寛容さと、人それぞれが物の見方が違うという人間の真理がわかる大人同士でないと通じない理屈です。もし、そうでない人がお茶会をやったとしてもそれは自分の価値観を押しつける「お教室」にしかなり得ません。
 私の「お茶会」にたいしての理想のイメージは「ジャズセッション」です。
 様式に縛られずに、演奏者同士だけでなく、オーディエンスも含めての一体感が、もう2度と再現できないような高度なレベルでの調和を生み出している。それと同じように、自由な中で「お茶」と言う一本の糸で淹れる人、飲む人が結ばれるようなお茶会がやりたいと感じています。そう言う意味でも「まう茶」でやっている「野外茶会」というイベントは、人が建物と言う「いれもの」「枠」を取り払ったところで、より自由に「淹れ」「飲み」そして「感動できる」のでは、と言う仮説に基づいています。野外と言う不安定な状況でこそ、それぞれの個性が発揮され「面白い」セッションになっているのではと個人的には思っています。
 余談ですが、一方で、日本の茶道は「クラシックのコンサート」に例えられるでしょうか。様式の中で指揮者の力量が問われるような部分は、主人を指揮者、客をそれぞれの演奏者に当てはめると、非常に似通った関係に個人的には思えます。

 バーのような茶館でお茶が飲みたい
 「主」が「客」をもてなす気持ちがお茶の味に関係するのであれば、茶館は「バー」のようでなくてはと思います。
 「バー」は酒を売るところにあらず、酒を媒体にして「主(お店)」が「客」をもてなす、そのもてなしにお金を払う所です。
 酒を混ぜるだけではなく、その雰囲気すべてを支配して客に対して満足を与える。言うなれば、もっとも洗練された接客業だと思っています。
 まず、ある一定のレベル以上のバーテンダーは一様に異常とも思える記憶力でそのお客がいつ来たか、何を飲んだか、どんな雰囲気だったかを覚えています。そして、話したいようであれば話をし、ゆっくり酒が飲みたいようであれば、飲み終わったら絶妙のタイミングで次のオーダーを取りに来ます。また、酒に関しての知識もひけらかすでもなく、望まれれば引出しを空けるように取り出して見せます。トップバーテンダーは酒に関しての故事、来歴に精通し、平安時代の清少納言が枕草子に書いた(「香炉峰の雪」と言われればすだれを上げる)から茶道の禅問答に通じるような日本人好みのウィットに富んだ独特な言葉遊びも多々存在します(「ボギーは来てますか?」というとドランブイ(リキュール)のボトルの内容量を確認するとか)
 このレベルを茶館に求めるのは酷なのでしょうか?しかし、あまりにも椿科の葉の煎じ汁を売るだけの店が多く、げんなりさせられてしまうのが今の現状です。空間だけはそれらしく作って、あとは何もなし、自分のお茶についても語れない、そんな店もあります。まだまだ貧困ではないかとおもってしまいます。お金を払って飲むからにはもっと不可価値をつけていただければと感じています。
 また、バーテンダーと客が単なる「酒好き」と言う枠でひとくくりにできないのと同様、茶荘、茶館とその客を同じ「お茶好き」というだけの枠でくくることはできないと感じています。たとえば絵画においての画廊と愛好家のように「対象物を売ることによって生活をする」人と「対象物を愛好する人」と言うのは利害関係が一致すればコミットできますが、そうでない場合は売ることで利益を享受する人と単純に愉しむ人は明らかに区別されるものです。
 これも残念なのですが、日本では、この図式をわきまえず、「同じ「お茶好き」でしょ?」といって距離感を無視して妙になれなれしい対応をする茶荘、茶館が多いのも事実だと思います。日本の中国茶を喫する習慣はまだ歴史が浅く愛好者も少ないのでそのようになってしまうのでしょうか?

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